認知的不協和(独学困難者が直面する精神的課題について)

老いも若きも男も女も、人は誰しも、
自分は賢くて合理的な判断をしている【方だ】と思いがちです。

自分の思う論理的・合理的・現実的は選択は、
自分に都合の良い妄想、になっていないでしょうか。
そんなことはありません、って答える人がほとんどだと思います。

自分なりの練習を続けている → いつまで経っても結果が出ない

A「それは***が***だから間違ってるよ」

Aの指摘が納得できる内容だったとしても、
間違っていた自分を認めて新たな道(方向)に進むのは精神的苦痛を伴うものとされています。
人間にはプライドがあるので、自分なりに努力を重ねてきたという自負があるので。

自分の非や間違いを素直に認めるのは、簡単なことではなないでしょう。
表面上は間違いを認めていたとしても「心の逃げ場」を作っていたりします。

「やっぱり間違ってたか……まあ、どうでもいいけど」

このくらいの負け惜しみなら微笑ましい範囲でしょうけれど、
絶対に認めない系や認めたら死ぬ系の人たちは心の安定を保つために、
Aを完全に無視したり、Aに敵意を向けたりすることもあるそうです。

「は? そっちが間違ってるんじゃね?」

ネットやSNSの発達により、間違っている側の人たちが仲間を見つけやすくなっている。
これも認知的不協和を醸成する一つの原因になっているみたいです。

大前提として、
自分の間違いを認めなくても、別に問題はないです。
なんとなく間違っているような気がしていたとしても、
酸っぱい葡萄は本当に酸っぱいかもしれないし、それをわざわざ確かめる必要もないでしょう。

例えば政治や経済を語るだけなら、全員が間違ったままでも特に問題はないはずです。
ポジショントークに馴染む分野というか、正解と不正解をはっきり区別できるような事柄ではないからです。

しかし、歌や発声に関しては違います。
特に【改善を考えている段階】であれば自分のポジションなんて気にしている場合ではありません。

「ご指摘ありがとうございます! 自分では全然気づきませんでした!」

でも、ふとした瞬間に、
心の奥底で湧き上がる疑問がある。

自分はそこまで間違っていなかったのではないか……?

この程度の自己弁護でもアウトです。
遅かれ早かれ元に戻ります。

自分で自分は騙せませんから、
本気で自分が変わらない限り、
声なんてそうそう変わりません。

心の底から自分の間違いを認める。
今まで無駄にした努力や時間を真正面から受け止める。
自分の判断力やセンスが平均よりも劣っている可能性を疑う。

そりゃ難しいですよ。
発声を改善するだなんて。

今までずーっと間違い続けてきたんだから、
これから先も間違う可能性が高いってことだから、
何度も何度も何度も何度も【認知的不協和】と向き合うことになるかもしれないんだから。

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